スタッフ

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舟橋幹也の
簡単なプロフィール

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今から4年前,逆流性食道炎になりました。

当時は23時まで営業しており,その後に外食と筋トレをしており

胃をいじめる生活をしておりました。

そんな生活を続けた結果,逆流性食道炎になり

・胸やけで気持ち悪い

・口が酸っぱくて常にガムをかむ

・ゲップで上向で寝ると吐きそうになる

と散々でした。

当時は逆流性食道炎という言葉も知らず,

なんか調子悪いな・・という日々が続き,

あるとき,セミナーで横に座った方から

「逆流性食道炎じゃないか?」

と言われ,はじめてその存在を知った次第です。

「病気なら治るかもしれない・・!」

逆に希望が湧いてきました。

逆流性食道炎だけに・・おほん!

鍼灸師なので鍼でやってやる!と毎日鍼をしていたら,

徐々にでしたが,日常生活が送れるようになってきました。

ガムをかまなくても平気な時間が増え,

ゲップも回数が減少。

無理すると出ますが,「気持ち悪くなると嫌だなー」と思う回数が減っただけでも嬉しかったですね。

自分が逆流性食道炎になっていた期間は半年ほどでしたが,

マラソン大会をリタイアしたり,食べ物が制限されたりと影響は大きかったです。

(これは困っている人もいるのでは??)

ということで肩こりや腰痛で来院されている患者さんに尋ねてみたところ,

「私も逆流性食道炎あるよー!」

「友達のだんなさんがそうだよ!」

と悩んでいる人が自分以外にも多いことがわかりました。

まずはテスト,ということで悩んでいる人をモニターとして格安で治療させていただきました。

全員ではなかったですが,良くなることがわかりました。

胃の知識を集中的に学び,論文もあらかた読破し

2018年に専門化いたしました。

壁もたくさんありました。。

全員に効果があったわけではなく,悔しい思いをすることもありました。

そのうちに

3ヶ月以上症状が続いている方は胃だけの問題ではないこともわかりました。

その結果治療スタイルも変わりました。

4年前に比べて改善率は確実に上がっています。

現在は治療の幅を広げ,病院で検査しても異常がない人のため

鍼灸院を営んでいます。

より詳しいプロフィール

舟橋幹也(ふなはし みきや)

1984年、愛知県半田市生まれ。

小学生から身体があまり強くなく、東洋医学に興味を持つ。

中学生の頃、ママチャリで岐阜や伊良湖岬へ友達と旅に出るという行動力を発揮し始める。

漢字が大好きで、中学入学時に漢検準2級に合格。

中学2年生の頃、部活で作った学校のホームページがSONYテープ&ディスク大賞を獲り、ひっそりテレビ出演。

しかし朝が弱く、高校受験前の志望校見学では、100人規模の学校代表を任されながら4時間寝坊して不参加。

その後、無事志望校に合格する。

受験勉強のストレスで顔に湿疹が出来るが、近所の鍼灸院の鍼で一夜にして治り、ますます東洋医学に興味を持つ。

高校はいじめのターゲットになったりで暗黒時代を送る。

この頃にサブカルに興味を持ち、ギターを手に取るが、Fのコードが押さえられず挫折。

卒業を控え、自他ともに「このままサラリーマンになっても華々しい人生は送れない」という確信があった為、以前から興味があった鍼灸の道を志す。

1年後、名古屋鍼灸学校へ入学。

制服あり、修学旅行はハワイ、色濃く残る徒弟制度に翻弄されながら無事卒業し、国家資格の鍼師・灸師・あん摩マッサージ師免許を取得。

なんでもやってみようの精神で職場を転々とし、2012年開業。

2015年に鍼灸マッサージ GREEN NOAHをオープン。

2019年にグリーンノア鍼灸院に改称。

大切にしていること

人生でどんな時が幸せかと聞かれたら、僕は「笑ってる時間が一番幸せ」と答えます。

そんな僕は、笑える仲間や、笑える環境をとても大切にしています。

しかし、身体が辛い時は笑う余裕がなくなってしまいますよね。

笑って治るほど人の身体は単純ではありませんが、治療は真剣に行い、結果笑ってしまうほど「治る」鍼が僕の理想の治療スタイルです。

時に笑えるブログを書くのも使命だと思ってやっています。

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▲笑いの為なら、身体張ります!

家族

家族構成は父、母、弟です。

父はサラリーマン。陸上が得意でしたが、現在はウォーキングが精一杯。退職も近い年齢で最近は畑を始めています。

母は園芸が得意で、グリーンノア鍼灸院の外にある花はほぼ母作です。

弟は現在県外でサラリーマン。父の運動神経はほぼ弟が引き継ぎ、野球特待で高校へ進学したほどです。

詳しいプロフィール

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▲左が弟で、右が僕です。 

浮き沈みの激しかった学生時代

好奇心でたくさんケガした幼少期

小さい頃は怪我が多く、ジャングルジムの頂上から落ちて唇を負傷、ローラースケートで勢い余ってガードレールを越えて崖へ転落、餅つき大会でせいろに触れて火傷等、怪我の絶えない幼少期を送りました。

好奇心旺盛だったのか、発泡スチロールをちぎって鼻に詰めてたら窒息しそうに。

また小学生の頃、ずる休みしようと水銀式の体温計をヒーターで暖めていたら破裂、危うく大惨事に。

僕は初孫だったので、スイミングスクール、そろばん、書道など習いましたが、どれも身が入らず、そろばんに至っては8級で終わり、さぞかし両親を失望させたと思います。

そんな中、無理に頼んで習わせてもらった油絵はずっと続きました。

この頃から、好きなものしか頑張れない性格だったようです。

好きが絡むと記憶力がいいもので、全国の地名と名産品を桃鉄(ゲーム)で覚え、さらに百科事典で理論武装した嫌な子供でした。

さらに、学研のまんが日本の歴史を読んで日本史にはまり、そのまま司馬遼太郎にはまる等、文化系の道をひた走っていました。

SONYの賞を獲った中学時代

3学年で1000人を超すマンモス校へ進学。

1年生の頃はいじめに遭い、プールに沈められる、部活でハブられる等を経験する。

限界を感じたので、部活の先生に退部したいと相談してみると、案の定引き止められました。

中学1年生の僕にとっては学校生活が人生のすべてだったので、部活をやめることは「絶対許されない」ような雰囲気があり、かなり後ろめたさみたいなものもありました。

それでも辞めたいと相談する時は相当限界なんですよね。

この頃は同級生はもちろん、担任、顧問そして両親にもあまり現状を理解してもらえず、辛い時期でした。

「頑張って続けることに意味がある」「いまやめるのは中途半端」「頑張っていじめてる側を見返せ」

こう言われると13歳の僕はなにも言い返せなくて、部活終わった後にいつも泣いていました。

もう周りに相談しても無駄だと思った為、強引に退部届を提出。

端からみたら挫折だと思いますが、もう部活に行かなくて済むと思うとそれだけで嬉しくて泣きそうだったのを覚えています。

それでも、形式上はどこかにの部に属さなければならないので、僕はクラフト部に属することに決めました。

クラフト部の活動内容は実は記憶にありません。

というのも僕が加入してすぐ、パソコン部へ変貌したからです。

どんな事情があったのかはわかりませんが、部室も技術室からコンピュータルームに変わりました。

クラフト部は、中学校のホームページを制作することになります。

僕が担当したのは部活動紹介。

ドット絵のアニメーションを使った紹介だったのですが、ガチャピンとムックがテニスするアニメとか、今思えばめちゃくちゃなものでしたが、毎日部活へ行って作業するのはサッカー部の100倍楽しかったです。

ちなみにサッカー部に対して屈折した思いがあったので、結構ひどい出来にした気がします笑

そんなホームページがなんとSONYの賞を受賞。

写真はありませんが、中学校での受賞式の様子はテレビ中継されました。

そんなに頑張った記憶はありませんでしたが、なんだか泣けてきたことだけは覚えています。

中学校時代は暗いことばかりではありませんでした。

部活も変わって落ち着いてきた頃、同じ部活の友人が、中学2年にして1人で自転車で静岡まで行ったいうエピソードを聞き、心を掴まれました。

なんだこれ、楽しそう。

すぐさまもう1人の友人を誘い自転車で70km先の岐阜を目指すことに。

中学生の想像力のなさと好奇心の力はすごいものです。

こういう旅って最高にワクワクするのですが、好事魔多し。

朝4時に出発した我々は出発してすぐに朝型のヤンキーのカツアゲに遭い、旅行資金の3000円は消えていきました。

そんな日々を過ごしながら、リベンジで自転車で岐阜や香嵐渓、浜名湖へ行ったり、初恋の相手に電話でフラれたりしながら中学生活も終わり、高校受験。

無事に地元の半田東高校へ進学しました。

黒歴史な高校時代

高校へ進学すると、リベンジと思い再びサッカー部へ入部。

しかしここでもいじめがあり、学校を何ヶ月も休むほど心を病みました。

当時はひたすら家に篭って読書や音楽に耽る日々。

どんな経緯か忘れましたが、サブカル方面の造詣がどんどん深くなっていきました。

音楽は流行りの音楽に背を向けて、洋楽ばかり聴いていました。

現実世界が充実してないと、J-POPは何も響いてきません。

オアシス・サイモン&ガーファンクル・ナインインチネイルズ・・とだんだん暗い音楽に傾倒。

読む本も司馬遼太郎から童門冬二などの歴史小説から中島らも、戸梶圭太らサブカル界隈を乱読。

大量に読書する中で、とある鍼灸師さんの本が、とても楽しくて、東洋医学に興味を持ちました。

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このまま人生ドロップアウトかと思われましたが、いじめていた人間とクラスが分かれた2年生から奇跡の復活を遂げ、再び行動力を発揮。

千葉へ友人と旅行へ行ったり、家でBBQを主催したり、卒業旅行したりとまあまあリア充っぽく過ごしました。

この頃、なぜか家で咲いてたジャスミンがとてもいい匂いがすることに気づきました。

ジャスミンの匂いは結構強いのですが、いじめられている時はその匂いにすら気付かなくて。

冗談みたいですが、花からいい匂いがしただけでとても幸せに感じたのを覚えています。

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▲ロッテファンだったので、高校に友人と千葉へ

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▲この頃から治療家ぶっていて、なぜか友人の膝をみていた。

3年生になると皆は大学受験を目指しますが、どうしてもサラリーマンとして大成する自分がイメージできず、以前から興味があった鍼灸の専門学校を受験することに。

人生の転機、専門学校時代

フラフラしていた1年間

高校卒業後、当時は倍率が厳しかった鍼灸学校へ補欠合格。

だれかが入学辞退したら合格になる立場でしたが、欠員は出ずに実質不合格に。

事実上の浪人生の誕生です。

専門学校で浪人なんて、自分でも何かのギャグかと思いましたが、現実なんだから仕方ありません。

1年間、最低限の生活費を稼ぎながら受験勉強する生活のスタートです。

人生初めてのバイトはカフェに。

「コーヒー出すだけで時給発生するなんて夢の様」と思っていたら、がっつり厨房の仕事もあってなかなかハードでした。

それでも人間関係に恵まれ、2か月目で結婚式に参加したりとそれなりに楽しく生活していました。

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▲なんだか社会に不満持ってそうな顔してますね・・

週に4日ほどバイトして、他の日は勉強。

たまに大学へいった友人と遊ぶ。

そんな生活に確実に順応しつつある自分に危機感を覚え、京都へ旅に出てゲストハウスで宿泊したり、各地の図書館をめぐって勉強したりと環境を変えながら再挑戦へ向けて頑張っていました。

人生の転機、専門学校時代

2004年、再度鍼灸学校を受験。

倍率2.5倍をくぐり抜け、1年ぶりに学生生活のスタートです。

僕の合格した名古屋鍼灸学校では、年齢がバラバラの約30人の仲間と3年間同じクラスで過ごすことになります。

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▲球技大会にて。そういえばこの頃からコスプレしてました。

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▲修学旅行はぜいたくにもハワイ。

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▲学校の近くの定食屋のおじさん。ご飯+ひやむぎのみの「ひやむぎ定食」は目を疑いました

学校は勉強だけでなく、飲み会、球技大会等のクラスのイベント、今までの学校生活では体験できなかったことばかり。

さらに学校外でも旅行へ行ったり、徹夜でゲームしたり、飲みに行ったりとプライベートが大充実。

高校卒業から日陰者のインドア派を極めていた僕はここでかなり救われましたね。

暗めの性格のかなり明るくなりました。

もちろん授業後は治療院や病院などで仕事兼勉強の時間。

僕はとにかく色々な職場をみておきたかったので、リラクゼーションサロン、治療院、接骨院を転々。

高校までは勉強が嫌いでしたが、興味あることならいくらでも頑張れます。

学校が3時に終わってからは仕事して、

21時すぎに帰宅して勉強、休日も仕事(とたまに遊び)、

という忙しい日々を送っているうちに、3年間はあっという間に過ぎて行きました。

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▲バイト時代、良くして頂いた先輩と。

卒業、そして銭湯へ

卒業後の国家試験は性別を書き間違えた以外は問題なく合格。

晴れて鍼師 灸師 あんまマッサージ指圧師となりました。

卒業、国家試験合格とくれば次は就職ですよね?

しかしながら、僕は卒業式が終わっても就職先を決められずにいました。

なぜ?

理由は働きたいと思える職場や師匠に出会っていなかったから、でした。

鍼の打ち方も色々流派があり、極端なことを言えばうつ人によってやり方や考え方が違います。

例えば、ある流派は2時間問診し、打つ鍼は1本だけ、というところや

頭にしか鍼をしないところ、100本も鍼うつところ等、実に多種多様です。

学生時代も様々な治療を受けたり、見学させてもらいましたが、ビビッとくるところはありませんでした。

そろばんを8級でやめ、部活も続かない僕なので、本当にやりたいことが見つかるまで1年間のモラトリアムを設けることにしました。

僕の就職先は1年間限定で銭湯の揉み屋さん。

ぶっちゃけた話、資格がなくともやれる仕事ですし、周りからも猛反対されました。

調理師免許をとって屋台のラーメン屋さんに就職するようなもの。

僕は半端な気持ちで治療院に勤めるよりは、事情を話してそれでも理解してくれるところに勤めさせて頂くことにしたのです。

勤務中に空いた時間は自由なので、ここで治療系の本を読んだり、情報を集めたり。

そして休日は治療を受けに行くという感じで過ごしていました。

社会人1年目の10月、ひょんなことから働きたいと思う師匠と出会うことになります。

漫画のような修行時代

・お前は細い!ということで自宅から自転車で片道25kmの通勤。

・体調が悪い時はその場で腕立て腹筋。

・ミスするとしばらく口を聞いてもらえないorエアガンで撃たれる。

これは戦時中の話ではなく、つい数年前まで僕が修行させて頂いてたところの話です。

銭湯時代の同僚づてに噂を聞いたこの治療院。

当時僕が興味を持っていたトリガーポイントという治療を専門に行っている治療院でした。

院長先生の腕は確かで、僕は何度も治療を受けに通い、ついに週に1度こちらで働かせて頂くことになりました。

上記のように過酷な環境でしたが、技術はもちろん、治療家としてとても大切な心構えを学ばさせて頂くことができました。

環境としてはハードで、僕のいる間も数え切れないくらいの人が弟子入りし、離脱していきました。

しかし、

学生時代のハードな環境が今更生きてきたのか、

「教えてもらえる上に鍛えてもらえてラッキー」

くらいの感覚でした。

とにかく、鍼で治療結果を出したい。

思春期と不遇時代が重なったので、承認欲求が非常に強いのかもしれません。

この承認欲求を修行を頑張るという方向にエネルギー変換することで、乗り切っていたのかもしれません。

こちらの修業先で学ばさせて頂いたのは

・治療家は、治療がうまくいった時ほど気を抜いてはいけない。

・常に患者さんの気持ちになれ。

・患者さんに症状を聞く前に症状を予測できるレベルになれ。

こちらで働かせて頂きながら、ダブルワークで他の治療院さんでも働いたり、株式会社の役員という立場にさせて頂いたりするうちに、徐々に開業という目標が見えてきました。

プライベート

他者からの評価

社会人になるとどうしても仕事ばかりになりますが、同じくらい遊びを大切にしてきました。

学生時代に比べて友人も増えたこの頃、僕はどんな風に思われていたのでしょうか。

今は全く面影がありませんが、僕が20代前半の時に全盛期を迎えていたmixiの紹介文を披露したいと思います。

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▲専門学校入学当時の印象がこれです。とりあえずやってみるの精神で、もらった鍼を初日に打ちました。

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▲的確に僕という人間を表していると思います。

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▲小学生と中学の時の話は本当に覚えてません。

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▲精神年齢、高いのがバレてしまいました。

mixiの紹介文ほど的確な他者評価はないと思うので、僕はこんな感じの人間なようです。

自分を変えるため、筋トレ&マラソン

体型が細いのが嫌で、20代中盤から筋トレしています。

始める前は188cmで66kgしかありませんでしたが、最高80kgまで増量しました。

身体が資本なので、筋トレの時間は必ず確保するようにしています。

また、これも健康のためですがマラソンをしています。

長距離走は大の苦手で、開始当初は1km走れませんでした(ひどい)

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その時の記録

やり続ければ変わるもので、仲間に恵まれてついには42kmのフルマラソンを完走するほどに。

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那覇マラソン完走。マジで死ぬかと思いました。

僕自身生まれつきそんなに身体が強くないので、このあたりの運動は一生続けていくと思います。

手先を器用にするために始めた手品が余興の定番に

鍼灸師である以上、手先が器用な方がいいなということで、数年前から手品を趣味にしてます。

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▲100人規模の結婚式で手品。度胸がつきます。

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▲オーダーでマジックコスチュームも作りました。

一時期は手品の協会に所属するほど。

将来はホスピタルクラウンの資格を取りたいと考えています。

友人のおかげでアクティブに

学生時代はインドアマスターでしたが、社会人になると周りに恵まれてアウトドアになりました。

このあたりは言葉よりも画像が伝わると思うので、一挙ご覧ください。

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標高2700m地点に到達。死ぬかと思いました。

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友達一同によるサプライズ誕生日パーティ(´;ω;`)

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▲現在は飲んでませんが、コーラが大好きです。

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▲悔しいけど似てる。

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▲雪合戦の大会。決勝トーナメントに進出するほどのレベルです。

学生時代は苦労しましたが、こうして並べてみると本当に友人に恵まれていると思います。

そして開業

こうして2015年の2月、鍼灸マッサージ GREEN NOAHをオープン。

鍼灸師を志していた時から「いつか開業するものだ」と思っていたので、正直あまり感動はありませんでした。

それよりも、わざわざ足を運んで自分の治療を受けていただけるありがたさ、が日々身にしみます。

10代の頃は、本当に自分自身に価値を感じていなかったので、こうして人に頼られる仕事というのは泣けるほどやりがいがあるものです。

最後に

こんな長文を最後まで読んでいただきありがとうございました。

なにかのお役に立てば,嬉しいです。

グリーンノア鍼灸院 院長 舟橋 幹也